CHROMING ROSE BIOGRAPHY β版

Chap.1
Over The Border

今から14年前の1985年、西ドイツ・バイエルン州アウクスブルグで、Mattias Mende(G)、Tane Mende(Ds)のMende兄弟とHarry Bex(B)が出会い、そこにシンガーが加わりCHROMING ROSEの原型が出来上がった。

オリジナルメンバーとして現在もバンドを支えているTane MendeとHarry Bexのバンド結成までの経緯は少々複雑なものがある。
MattiasとTaneは東ドイツに、Harryはルーマニアに生まれた。 その当時は東西冷戦の最中で、東側から西側に移る事は非常に難しい時代であった。 そのため、Mende兄弟そしてHarryは亡命という手段で西ドイツに渡ったのである。

何故彼らは危険を冒してまで亡命することになったのだろうか。

MattiasとTaneは西ドイツに住んでいた父親を頼り亡命を実行する事となった。その当時の状況をTaneは次のように語っている。
「西ドイツに住んでいる祖母が重病で、家族全員で見舞いに行く事を国家に申請したんだが、何と数年も待たされたんだ。 家族はずっと西ドイツに脱出する事ばかりを考えていたんだ。」
彼らはまずブルガリアに観光目的で入国し、そこから西ドイツへ亡命したのである。
そんなTaneの目には1990年のベルリンの壁崩壊はどう映ったのだろう。
「壁がある頃は、法律で西側に家族がいる者しか東から西には出られなかったんだ。それ以外の人たちは絶対だめだった。 だから、いきなり自由になったのは奇妙な感じだったよ。東では西のことは新聞で読むだけで、父さんと電話で話すくらいだったんだ。 だから僕らが初めて西ドイツに足を踏み入れた時には、まるで月に足を踏み入れたニール・アームストロング船長のような気分だった!(笑) ついこの間まで日常の基本的なものでさえ手に入らなくて、苦しい生活をしていたのに、今では何でも買える・・・・・・ 口で説明するのは難しいなぁ・・・実際に体験しないと、この気持ちは理解できないよ。」

Harryの母国ルーマニアは当時国外に出る事を禁止していたため、政府関係者に3万マルク(約270万円)を支払い一家で出国した。 ルーマニアの月平均の生活費が300マルクという時代である、この出国がいかに大変な事であったかが分かる。
このことについてHarryは、アルバム「Garden of Eden」のライナーの中で以下のように語っている。
「ルーマニアでロックン・ロールを演るのは本当に難しい。国家の許可がいる。つまり、政党の党員にならないといけない。 だから、西ドイツ製の優秀な機材を手に入れることは出来るけど、プロパガンダのためのバンドになってしまう。歌詞にしても国家のために書くんだ。 すべて国家に管理されている。いい楽器は高すぎて、若者の手には届かないんだ。」

この3人がアウグスブルグで出会い、そこにシンガーを迎えバンドはスタートした。バンド名はMende兄弟の提案で「CHROMIUM ROSE」(クロミウムの薔薇)と名乗る事となった。この「CHROMIUM ROSE」のサウンドは’85年当時ドイツ国内のHMのトレンドであったスピード・スラッシュ・メタルであった。
国家の統制という呪縛から解放され、自分たちの思いをストレートに表現できる事になった彼らにとって、それまでの”怒り”を叩き付ける音楽としてスラッシュ・メタルを選んだのは当然だったのかも知れない。

東側の人たちにとっての「自由」への憧れがどれ程のものであったか・・・それは奇しくも後に比較され、苦しめられる存在となるHELLOWEENの「Ride The Sky」が、ポーランドのHMチャートで6周連続の1位を記録したことによって証明されている。

CHROMIUM ROSE
Vo unknown ・・・
GMattias Mende
B Harry Bex
DsTane Mende



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